2002-11-06 第155回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第1号
それがコーランの教えという中でありますし、それが一つの、もう小さいときからそれを、コーランをたたき込まれているというのがイスラム教徒であるということを考えれば、そこが、我々みたいな、彼らからすれば恐らくいい加減な宗教信者からすれば違ってくるんじゃないかなという点が一点、付け加えさせていただきたいと思います。
それがコーランの教えという中でありますし、それが一つの、もう小さいときからそれを、コーランをたたき込まれているというのがイスラム教徒であるということを考えれば、そこが、我々みたいな、彼らからすれば恐らくいい加減な宗教信者からすれば違ってくるんじゃないかなという点が一点、付け加えさせていただきたいと思います。
そして、イスラムの聖典はムハンマドという人物が神から啓示された、神から与えられた言葉を集めたというふうに考えております、神の言葉の集積でありますコーランというものがイスラムの聖典でありますが、そのコーランの中にもそういう迫害に耐えるごく少数の宗教信者という側面が色濃く残っております。
いろいろな方があるのですよ、宗教信者は。機関として参っていいということになりますと、結局国家神道のような特別視して、そこに個々人の人たちの信教の自由というのを否定することになるのです。それを私は言いたいのです。これは歴史の一つの経験なんです。そこから今日の一宗教法人としての靖国神社のあり方、政教分離、国家の不介入、こういった本当に原則的な意味がある、こういうように思うのです。
したがって、特別な宗教信者といえども、これは結社の自由はあると、かように私は考えておりますので、そういうことで、結社の自由というものは、そういう意味ではないかと、かように思っております。 あわせて表現の自由も入っていると、こういうことでございますから、私の不足した部分は訂正させていただきます。
そこで官署のほうからも過去の御社の取扱いでなしに、宗教として取扱うということは通達もしておりますが、一般の民衆のほうでは、やはり神社は宗教であり、氏子はその宗教信者であるという意識を持つているものが少くない、ということが私は現状であろうと思うのであります。
われわれは政治家として、あるいは国家の最高機関として、そういう宗教を通じての平和思想云々にあまり深くタツチすることは、よい慣例を残すことよりも、むしろ宗教的な偏見といいますか、国会が何か宗教にタツチし過ぎるというような一つの懸念もあるのではないかということをおそれておるのでありまして、そういう点においてこの際永井博士を表彰するときに、ただ一宗一派の宗教信者であるという点において表彰することが、消極的